キーロン経由でマナリに逆戻り。道連れがいて楽しめたけど。
サルチュを出たのが遅かったため、マナリまで一気に戻ることができなかった。
このオンシーズンにまさかレー行きがぽしゃると思わず、ここらの町が掲載されているガイドブックどころか、地図すら持ってない。キーロンって何処?
幸いにして、Nさんが旅行人ノートのチベットのコピーを持っていた。
レーだけでなく、なんとなく周辺地区もコピーしてみたそう。
助かった!多少なりとも情報があると気分的に落ち着くもんね。言葉が通じない国だとなおさらだ。
Nさんはインド旅行よりもチベット好き。今回もチベタンに会いたくてインドに来たらしい。
去年の夏の旅はチベットだそうで、もしかしたら私とニアミスしてたのかも。
「広州から成都まで2泊3日もかかるし。ラサまでの飛行機取れなくて成都で1週間も暇だったし。
結局、3日くらいしかラサに入れなかった。」
「社会人にもなって3日もかけて列車の旅ができるわけ?」
何かにつけて「俺は就職したらもう旅なんてできない。休めるワケない」などと言うが、
私は働きながらもせっせと休みを取って、飛び回っているサラリーマンパッカーによく会う。
ふっ ヽ(´-`)r。どうせ我慢できなくなってなんだかんだ時間を見つけて旅立つようになるよ、君も。
サルチュからマナリ方面に引きかえすバスに乗っていたのは、先ほどのオージーカップル、日本人4人+1。
そして、私がマナリで日本人と間違えたイギリス人(ドミニクという)の8人だ。
早朝見かけた眼鏡の男性もいて、彼はバンコク経由でやってきた日本人サラリーマンであった。
バンコクで友人宅に立ち寄ったら、そこの娘が「私も連れてってー」とついてきてしまったらしい。
笑えば超かわいいのにいつ見ても不機嫌で、テントを見ては「汚い」。布団に入れば「重い」。
とにかくインドが受けつけないないらしく、何かと不満ばかり言っていたという。
「インドだよ?ラダック行くんだよ?絶対きついって忠告したのにさー。」
彼女の想像するきつさとはレベルが違ったようだ。
タイ人はとてもきれい好きな民族だと聞いたことがある。
汗くさいシャツを着ているなんて耐えられないとか、汚いバックパッカーを軽蔑してるとか。
テント泊でシャワーが浴びれなかったり、するのがイヤだったのかも。
「日本人とタイ人の子供だからきっと、あの子絶対金持ちですよ。お嬢だって。」
崖崩れで通行止めになっていることもあり、キーロンの町は意外なほどに宿が満室でちっとも空室が見つからない。
やっと見つかったこぎれいな部屋は、お嬢様のエスコートで疲れ切っているめがねのおじさまたちに譲ることにして、
我々は残った公営のツーリストバンガローのドミトリーで落ち着いた。それなりに清潔で、お湯がでるし。
日本人三人と、中国ミックスのイギリス人ドミニクとの相部屋。ドミニクはさぞかし居心地悪かったでしょう。
ドミニクはマナリに病気になった友人を置いてレーに行くつもりだったそうである。
レーから戻ったら友人と合流して帰国だそうで、その帰りの飛行機は5日後。
それもデリーから戻るのかと思ったら、ムンバイからって・・・。
レーまでバスで2日以上かかるのにどうやって戻るつもりだったのよ!
短い休みを縫って忙しい旅をしてしまうのは日本人だけじゃないんだなぁと変に感心してしまったよ。
翌朝、Kさん、Nさん、ドミニクと連れだってマナリ行きのバス停へ向かった。
実は昨晩、「スピティーに行きたい!ダライラマさんに会いに行こうよ」という話が出ていた。
Kさんはデリーで、スピティーにカラチャクラの取材に行くというカメラマンと出会い、その情報を得たそうだ。
行ってみたい好奇心と、ミーハー心を自制する理性とがせめぎ合う。簡単に行ってもいいものなのかなと。
そもそもスピティーってどこか知らないし、カラチャクラとかいう行事も、チベット仏教も知識があまりにも少ない。
「とりあえず、一度マナリまで戻って情報集めません?」とNさんの台詞をきっかけに、一旦マナリに戻ることになった。
マナリにつくとまずヒマーチャルツーリズムに「レーまで行けなかったからバス代返せ!」と言いに行ってみた。
ダメもとだったが、あっさりと「サルチュまで行って、泊まったんだから半額になるけどいいか?」と400ルピーが返ってきた。 こういうのはよくある事らしい。
ジープの予約をし、ホテルを探し周り、やっと落ち着いたのは2時間後くらいだろうか?
この時期は雨期なのもありマナリの宿は割に供給過剰なので、時間さえかければ好みの宿に安く泊まれる。
今回の基準は「洗濯物が良く乾きそうな宿」で、洗濯ロープを張れないからダメ、暗いからダメ、窓が小さくて風通しが悪いからダメ、 3人泊まれないからダメ。
最終的にバルコニーがあり風通しの大変よろしい宿を見つけた。喜び勇んでじゃばじゃば洗濯をし、部屋にバルコニーにと乾しまくった。
ところで、旅行記の筋からはそれるが、Kさんの洗濯物は私の3倍はある。洗濯物だけでなく、荷物もとても多い。
履き物は3足も出てくるし、シュラフに防寒着、でっかいボトルに入った基礎化粧品。衣類は私の2倍!。 さらに、「荷物を減らそう」と言いながら食べていた固形食(バランスパワーとかピュアインとか)が大量に出てくる。
でかくて重そうな鞄をよたよたと持ち歩いていたので、「一体何が入っているのだ?」と謎だったのだよねぇ。重いわけだわ。
KさんはKさんで「荷物すごく少ないのに、余計な物持ってるね」などと言う。荷物を厳選していると言って下さい!
ま、確かに鹿男は余計。山の中じゃ蚊も出ない。そして、衣類が少ないと洗濯物が乾かないと着替えられない。
いいのです。足りない物は現地調達するのだからっ。
でも、さすがに男の子のNさんはさらにワタシの半分くらいの荷物だった。うーん、見習いたいところだ。
このオンシーズンにまさかレー行きがぽしゃると思わず、ここらの町が掲載されているガイドブックどころか、地図すら持ってない。キーロンって何処?
幸いにして、Nさんが旅行人ノートのチベットのコピーを持っていた。
レーだけでなく、なんとなく周辺地区もコピーしてみたそう。
助かった!多少なりとも情報があると気分的に落ち着くもんね。言葉が通じない国だとなおさらだ。
Nさんはインド旅行よりもチベット好き。今回もチベタンに会いたくてインドに来たらしい。
去年の夏の旅はチベットだそうで、もしかしたら私とニアミスしてたのかも。
「広州から成都まで2泊3日もかかるし。ラサまでの飛行機取れなくて成都で1週間も暇だったし。
結局、3日くらいしかラサに入れなかった。」
「社会人にもなって3日もかけて列車の旅ができるわけ?」
何かにつけて「俺は就職したらもう旅なんてできない。休めるワケない」などと言うが、
私は働きながらもせっせと休みを取って、飛び回っているサラリーマンパッカーによく会う。
ふっ ヽ(´-`)r。どうせ我慢できなくなってなんだかんだ時間を見つけて旅立つようになるよ、君も。
サルチュからマナリ方面に引きかえすバスに乗っていたのは、先ほどのオージーカップル、日本人4人+1。
そして、私がマナリで日本人と間違えたイギリス人(ドミニクという)の8人だ。
早朝見かけた眼鏡の男性もいて、彼はバンコク経由でやってきた日本人サラリーマンであった。
バンコクで友人宅に立ち寄ったら、そこの娘が「私も連れてってー」とついてきてしまったらしい。
笑えば超かわいいのにいつ見ても不機嫌で、テントを見ては「汚い」。布団に入れば「重い」。
とにかくインドが受けつけないないらしく、何かと不満ばかり言っていたという。
「インドだよ?ラダック行くんだよ?絶対きついって忠告したのにさー。」
彼女の想像するきつさとはレベルが違ったようだ。
タイ人はとてもきれい好きな民族だと聞いたことがある。
汗くさいシャツを着ているなんて耐えられないとか、汚いバックパッカーを軽蔑してるとか。
テント泊でシャワーが浴びれなかったり、するのがイヤだったのかも。
「日本人とタイ人の子供だからきっと、あの子絶対金持ちですよ。お嬢だって。」
崖崩れで通行止めになっていることもあり、キーロンの町は意外なほどに宿が満室でちっとも空室が見つからない。
やっと見つかったこぎれいな部屋は、お嬢様のエスコートで疲れ切っているめがねのおじさまたちに譲ることにして、
我々は残った公営のツーリストバンガローのドミトリーで落ち着いた。それなりに清潔で、お湯がでるし。
日本人三人と、中国ミックスのイギリス人ドミニクとの相部屋。ドミニクはさぞかし居心地悪かったでしょう。
ドミニクはマナリに病気になった友人を置いてレーに行くつもりだったそうである。
レーから戻ったら友人と合流して帰国だそうで、その帰りの飛行機は5日後。
それもデリーから戻るのかと思ったら、ムンバイからって・・・。
レーまでバスで2日以上かかるのにどうやって戻るつもりだったのよ!
短い休みを縫って忙しい旅をしてしまうのは日本人だけじゃないんだなぁと変に感心してしまったよ。
翌朝、Kさん、Nさん、ドミニクと連れだってマナリ行きのバス停へ向かった。
実は昨晩、「スピティーに行きたい!ダライラマさんに会いに行こうよ」という話が出ていた。
Kさんはデリーで、スピティーにカラチャクラの取材に行くというカメラマンと出会い、その情報を得たそうだ。
行ってみたい好奇心と、ミーハー心を自制する理性とがせめぎ合う。簡単に行ってもいいものなのかなと。
そもそもスピティーってどこか知らないし、カラチャクラとかいう行事も、チベット仏教も知識があまりにも少ない。
「とりあえず、一度マナリまで戻って情報集めません?」とNさんの台詞をきっかけに、一旦マナリに戻ることになった。
マナリにつくとまずヒマーチャルツーリズムに「レーまで行けなかったからバス代返せ!」と言いに行ってみた。
ダメもとだったが、あっさりと「サルチュまで行って、泊まったんだから半額になるけどいいか?」と400ルピーが返ってきた。 こういうのはよくある事らしい。
ジープの予約をし、ホテルを探し周り、やっと落ち着いたのは2時間後くらいだろうか?
この時期は雨期なのもありマナリの宿は割に供給過剰なので、時間さえかければ好みの宿に安く泊まれる。
今回の基準は「洗濯物が良く乾きそうな宿」で、洗濯ロープを張れないからダメ、暗いからダメ、窓が小さくて風通しが悪いからダメ、 3人泊まれないからダメ。
最終的にバルコニーがあり風通しの大変よろしい宿を見つけた。喜び勇んでじゃばじゃば洗濯をし、部屋にバルコニーにと乾しまくった。
ところで、旅行記の筋からはそれるが、Kさんの洗濯物は私の3倍はある。洗濯物だけでなく、荷物もとても多い。
履き物は3足も出てくるし、シュラフに防寒着、でっかいボトルに入った基礎化粧品。衣類は私の2倍!。 さらに、「荷物を減らそう」と言いながら食べていた固形食(バランスパワーとかピュアインとか)が大量に出てくる。
でかくて重そうな鞄をよたよたと持ち歩いていたので、「一体何が入っているのだ?」と謎だったのだよねぇ。重いわけだわ。
KさんはKさんで「荷物すごく少ないのに、余計な物持ってるね」などと言う。荷物を厳選していると言って下さい!
ま、確かに鹿男は余計。山の中じゃ蚊も出ない。そして、衣類が少ないと洗濯物が乾かないと着替えられない。
いいのです。足りない物は現地調達するのだからっ。
でも、さすがに男の子のNさんはさらにワタシの半分くらいの荷物だった。うーん、見習いたいところだ。
余談:インドのお金の話。
キーロンで入ったレストランで500ルピー札を出すと、お札を手に取った店員は、透かしたり裏返したりして隅々までお札をチェックし始めた。
「500ルピー札は偽物が出回ってるから受取拒否をされるかもよ」
偽札といっても、旧紙幣だけで新紙幣は大丈夫だという。
新紙幣はすかしもあるし、斜めに傾けると500って言う文字が浮かび上がったりして、なかなかの印刷技術。 さらに色も綺麗で、紙幣の大きさも一緒。確かにこれの偽札を作ろうとしたら相当の技術が必要だ。
「もし、旧紙幣を持っていたらどうすればいいの?」
「手触りとかで一応調べるけど、結局のところあまりよくわからないんだよ。だから受け取らないの。」
自分の所持金を全て調べてみると、私の持っている500ルピー札は全てガンジーさんの絵の入った新紙幣だった。
その後の両替でも100ルピー以下は旧札が混じるモノの、500ルピーの旧札はついぞお目にかからなかった。
(2013年現在は500ルピーだけでなく小さなお札もガンジーさんの絵が入ってないと使えないそうで、
たまに悪徳両替商が、それを知らない外国人に旧札を混ぜて渡す例があるそうな。)
それにしてもインドのお札。他の製品に比べたら似つかわしくないほど品質が良い。
不思議に思ってはいたが、帰国後、とある本を読んで謎が解けた。インドの新しい紙幣印刷機は日本製だった。
当時、世界の200カ国余りのうち、自国で紙幣を印刷しているのは日本を含めたったの60カ国程度だが、 印刷機はスイスにあるグローバル企業のほぼ独占市場なのだそうだ。
お金なので、「アメリカが使ってるなら間違いないだろう・・・」などと大国の右にならう国があったり、はたまたこのスイスの企業がライバル企業を買収したりして、他の企業が出て来れなかったが、独占であるが故に印刷機の部品不足、故障の対応の遅延、機械の高騰などと、問題が噴出。
その点を日本の大蔵省お抱えメーカー(小森コーポレーションという)が正攻法で突き、最終的にこのスイスのメーカーと一騎打ちの末に、落札したといういきさつがあるらしい。紙幣印刷の世界ではセンセーショナルだったとか。
今でも日本製印刷機が活躍してるんですかね。
「500ルピー札は偽物が出回ってるから受取拒否をされるかもよ」
偽札といっても、旧紙幣だけで新紙幣は大丈夫だという。
新紙幣はすかしもあるし、斜めに傾けると500って言う文字が浮かび上がったりして、なかなかの印刷技術。 さらに色も綺麗で、紙幣の大きさも一緒。確かにこれの偽札を作ろうとしたら相当の技術が必要だ。
「もし、旧紙幣を持っていたらどうすればいいの?」
「手触りとかで一応調べるけど、結局のところあまりよくわからないんだよ。だから受け取らないの。」
自分の所持金を全て調べてみると、私の持っている500ルピー札は全てガンジーさんの絵の入った新紙幣だった。
その後の両替でも100ルピー以下は旧札が混じるモノの、500ルピーの旧札はついぞお目にかからなかった。
(2013年現在は500ルピーだけでなく小さなお札もガンジーさんの絵が入ってないと使えないそうで、
たまに悪徳両替商が、それを知らない外国人に旧札を混ぜて渡す例があるそうな。)
それにしてもインドのお札。他の製品に比べたら似つかわしくないほど品質が良い。
不思議に思ってはいたが、帰国後、とある本を読んで謎が解けた。インドの新しい紙幣印刷機は日本製だった。
当時、世界の200カ国余りのうち、自国で紙幣を印刷しているのは日本を含めたったの60カ国程度だが、 印刷機はスイスにあるグローバル企業のほぼ独占市場なのだそうだ。
お金なので、「アメリカが使ってるなら間違いないだろう・・・」などと大国の右にならう国があったり、はたまたこのスイスの企業がライバル企業を買収したりして、他の企業が出て来れなかったが、独占であるが故に印刷機の部品不足、故障の対応の遅延、機械の高騰などと、問題が噴出。
その点を日本の大蔵省お抱えメーカー(小森コーポレーションという)が正攻法で突き、最終的にこのスイスのメーカーと一騎打ちの末に、落札したといういきさつがあるらしい。紙幣印刷の世界ではセンセーショナルだったとか。
今でも日本製印刷機が活躍してるんですかね。